坂本龍馬の奥さんのおりょうって気になりませんか?
唐突に、すみません。・・・でも、気になりますよね。
今回は、坂本龍馬ではなく、おくさんのおりょうにスポットを当てて、お話をさせて頂こうと思います。
「おりょうってどんな人?」とか「再婚したという話は本当?」とか、また、「坂本龍馬の奥さんって誰?」から始まる方も、いらっしゃるかもしれませんね。
坂本龍馬との出会いから晩年まで、それから、色んな事件や噂まで、もうすでに知ってる人も十分、楽しめる内容となってると思いますので楽しんでいってくださいね。
坂本龍馬の奥さん・おりょうとは?名前・人物像・何人いたのか
坂本龍馬の奥さんの本名は、楢崎龍で、通称「おりょう」です。
「龍」とか「お龍」、晩年の頃には「龍子」と記されてることもあります。
坂本龍馬を調べる上で様々な女性関係が出てきますが、基本的に、妻と呼べるのは、おりょう一人のようです。
坂本龍馬の妻の名前は楢崎龍(おりょう)
楢崎龍とか、おりょうとか色々な字で表記されることを表記ゆれと言いますが、この時代は、表記ゆれは、珍しくなく、一説によると歴史の色んな史料を読んでいると、まるで別人のように感じてしまうとのことです。
歴史の本を読んでると楢崎龍と出てきたりしますが、「おりょう」の事なので覚えておいてください。
坂本龍馬に奥さんは何人いた?最初に知りたい結婚相手の基本
最初に、もう、わかってると思いますが、どの歴史本を読んでも、坂本龍馬の奥さんと認識されているのは、「おりょう」一人のよぅです。
千葉佐那という女性が出てきたりしますが、「婚約者」と語られる事があっても、奥さんは、ただ一人「おりょう」だけです。
というのは、この時代、戸籍制度が今とは違って婚姻届のようなものが整っていなかったらしく、表現が曖昧になることがあるらしいです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 妻として最も有名な人物 | 楢崎龍(おりょう) |
| 別名・表記 | お龍、おりょう、龍 |
| 龍馬との関係 | 妻として広く認識される |
| 混同されやすい人物 | 千葉佐那など |
おりょうはどんな女性?実家と家族、楢崎将作とは
お量の人物像ですが男勝りで勝気な性格だったようで、凄いエピソードが一つあります。
それは、後述していますので、後程、お読みください。
また、そんな、男勝りなところは、龍馬を除いては、男性陣には受けなかったようです。
そんな、おりょうの家族構成はというと、中々の大家族です。
妹に次女、光枝と三女、起美(君江)、弟に太一郎、健吉、父の将作は、青蓮院宮尊融法親王(しょうれんいんのみやそんゆうほうしんのう)の侍医で内科・外科医学を専門にしていました。
後に、柳馬場(やなぎのばんば:京都市中京区)に移住したそう。
おりょうは、父が侍医だったので裕福な家庭で育ったそうで、生け花や香道、茶の湯など嗜んでいた。
でも、尊王攘夷派だった、父、将作が1858年(安政5年)に江戸幕府が尊王攘夷派の志士を弾圧した「安政の大獄」で投獄された。
父、将作は、そのまま獄死したとも、1862年(文久2年)に釈放後、京都の自宅で亡くなったとも言われています。
父が、亡くなって家財が押収されて、困窮した。
一家はバラバラになって・・・・・。
おりょうは、この時、弱冠23歳の頃でした。
おりょうの年表で見る生涯|出会いから結婚まで
おりょうの生涯です。
冷静に見てみると波乱万丈な生涯だったと思います。
京都で西陣織の商人の家に生まれ、困窮で侍医の楢崎将作の裕福な家に育ち、将作の死による困窮。
寺田屋での奉公時代、坂本龍馬との出会いを経て、寺田屋事件へと続き、そして結婚。
こうやって、困窮がある点などを見てみると、この時代の政治情勢や時代背景が大きく関わってるような気がします。
多分、彼女の人生は、幕末から維新という時代に翻弄されてきた一人なんでしょうか。
でも、確かに、彼女は、この時代に存在し必死にこの凄惨な時代を生き抜いてきた我々の先人だとすると誇りに思いますよね。
楢崎龍として生まれる:実家と幼少期
おりょうと関わってきた人の回想を聞いてみると、一つも良いエピソードがないです。
これは、多分、当時の人間としては珍しく男勝りで勝気なところが関係していると思います。
しかし、坂本龍馬に対しては、心地いいものだったかもしれません。
そう思うと、龍馬の懐の深さを感じるのは私だけでしょうか。
天保12年6月6日(1841年7月23日)に、父、楢崎将作(ならさきしょうさく)と、母、「貞」(さだ)もしくは「夏」(なつ)の間に5人姉弟の長女として京都の富小路六角(とみのこうじろっかく:京都市中京区)付近で生まれた、とありますが、実父は、西陣織の商人で将作の養女になったということです。
寺田屋で働いた背景と幕末京都での生活
おりょうは、父が侍医だったので裕福な家庭で育ったそうで、生け花や香道、茶の湯など嗜んだ。
でも、尊王攘夷派だった、父、将作が1858年(安政5年)に江戸幕府が尊王攘夷派の志士を弾圧した「安政の大獄」で投獄された。
父、将作は、そのまま獄死したとも、1862年(文久2年)に釈放後、京都の自宅で亡くなったとも言われています。
おりょうは、この時、23歳。
父が、亡くなって家財が押収されて、困窮した。
そんな中で、母が悪者に騙されて、妹達が売りに出されることになったそう。
起美が、舞妓として島原へ、光枝は、女郎として大坂へ。
それを知った、おりょうは、着物を売って、お金に替え刃物を懐に大坂へ向かった。
そこで、男2人に「殺せ、殺せ、殺されにはるばる大坂に来たんだ、これは面白い殺せ」と死ぬ覚悟で啖呵をきったという。
前述したエピソードとは、この事です。この話が、逸話として残っていますね。
男勝りで勝気な気性の激しい性格ということです。
寺田屋で働いた背景と幕末京都での生活
そして、おりょうは、七条新地で「扇岩」という旅館で働くことになり、母の貞は天誅組の残党を含めた土佐藩の尊王攘夷派志士達の隠れ家である方広寺大仏殿(京の大仏)で賄いをしていた。
余談になりますが、当時の京都は、新選組や勤王の志士達が頻繁に出入りしたり、そこで働くということは、奉公以上のことをするということでもあったんです。
母・妹に会いに来た、おりょうが龍馬と対面します。
坂本龍馬との出会いはいつ?寺田屋事件と二人の距離
そして、やっと、ここで、龍馬と対面を果たすんですね。
1864年(元治元年)5月頃のことです。
母・妹に会いに来た、おりょうが対面したんです。
おりょうから見た龍馬は、後に、「妙な男」だと回想してます。
「少しの誤りも徹底的に正さなければ納得せず、しかし明確に謝ればすぐ許し、その後は親切に教えてくれた」
これは、大事なエピソードですね。
龍馬の性格がわかってきます。
そして、龍馬と初対面の時名前を聞かれて紙に書いた時、笑いながら「いっしょだ」と言っていたと回想していたそうです。
また、2人で鴨川に沿ってよく散歩していたようですね。
仲良くなるのに時間はかからず、「まことに面白き女」と乙女宛てに龍馬は手紙を書いてます。
そして、困窮していた、おりょうを、ほっとけなかった龍馬は、伏見寺田屋のお登勢に預けたということです。
この時点で、おりょうは、お登勢の娘分になり、「お春」となのった。
当時、寺田屋は伏見の船宿で、多くの志士や関係者が行き来する場所で、ここで働くということは、奉公以上の意味をもっていたそうです。
そして、この時の数々のエピソードを紹介します。
寺田屋での数々のエピソード
- 龍馬とおりょう、散歩中新選組に遭遇→逃走
- 薩摩藩士、中村半次郎(桐野利秋)に夜這い未遂
- 近藤勇に口説かれる
- 寺田屋事件
坂本龍馬との出会いはいつ?寺田屋事件と二人の距離
記録によると、慶応元年8月1日に、龍馬と、おりょうは、内祝言を挙げたと回想している。
慶応二年、寺田屋事件です。
あまりにも有名な事件ですね。
薩長同盟の後の話です。
龍馬は、また、敵を作ってしまったんですね。
幕府の追手です。
おりょうが、入浴中に、外部からの異変に気付き、上一枚羽織ったまま、2階にいる龍馬に知らせにいったんです。
おりょうの機転が、龍馬の危機回避につながったんですね。
これは、龍馬が書いた乙女への手紙にも書いていて事実なんですね。
よくよく考えてみると、この機転も普通の人には無理だったと思います。
京都・伏見は、尊王攘夷派とかの志士達が、よく往来していて物々しい雰囲気に包まれていたので、その時代の空気を肌で感じて、人を見る目や危険察知の感覚がみについている、おりょうだからこそ、成し得た事だと思います。
そういう意味では、ここでは運がよかったんですね。
いずれにしても、この時、龍馬と、おりょうの絆がまた、深くなったと思いますよ。
慶応期の結婚と夫婦の手紙に見る関係
この頃になると、龍馬と、おりょうの関係も周囲からも認められる存在になってきたみたいです。
慶応2年12月4日、兄の権平には、寺田屋事件の事を詳しく報告し、「名は龍、今は妻です」とかいている。
姉の乙女には、「このお龍がいたからこそ、龍馬の命は助かりました」と手紙を残している。
夫婦であることを周囲に認めさせ、自分らの絆も深くなって、この時が幸せ絶頂のときですね。
そして、新婚旅行へと、つながっていきます。
坂本龍馬とおりょうの夫婦生活|新婚旅行から日本各地での足跡
寺田屋事件で龍馬は両手指に負傷を負い、西郷隆盛の勧めで療養することになったそう。
一応、夫婦生活も伴ってけど、後世に日本初の新婚旅行とか言われるけど、調べてみると、移動とか療養や政治活動とかで、気長に楽しくというよりは、不安定な日々の連続と言った方がいいかもしれないですね。
でも、確かに、京都や薩摩や長崎には、その、足跡が残されています。
日本初の新婚旅行とされる鹿児島・塩浸温泉への旅
龍馬とおりょうは、慶応2年3月4日に、薩摩藩船の「三国丸」で大坂を出港したようです。
おりょうは、船上での龍馬と西郷との会話を回想していた。
龍馬「天下が静まったら汽船を造しらえて日本を巡ろうとか」
おりょう「家などいりません。船があれば十分です。外国まで廻ってみたいです」
龍馬「突飛な女だ」(笑)
西郷「突飛な女だから君の命は助かった」(大笑)
この話だけ聞いていると、何だか楽しそうですよね。
まず、龍馬とおりょうは、鹿児島へ向かいます。
霧島、塩浸温泉の旅です。
日本初の新婚旅行だと紹介されることが、よくあるそうです。
龍馬とおりょうはどんな生活を送った?京都・長崎・海援隊との関係
龍馬とおりょうは、予想どうりと言われれば、そうなんですが、普通の旅行とは全然、かけ離れたものになっているようです。
長崎では、亀山社中や海援隊の仕事をやるし、京都では、政治の交渉に参加したりと常に忙しかった感があります。
そんな感じで、二人が、ゆっくりと、していられる時間というのは、決して多くはなかったけど、おりょうの立場としては、龍馬たちの生活面を支え、周辺事情を全体的に把握し、いわば、伴侶としての立場が、そして、龍馬にとって世界一信用の出来る頼もしい存在として君臨していたのではないかと、思われます。
なにも話さずとも、わかりあえる。
いや、龍馬としては、「そばにいるだけでいい」、そうした関係が自然とできあがっていたような気がします。
おりょうはスパイだった?よくある説の真相を検証
おりょうの事を調べていると、「おりょうは、寺田屋で、スパイ活動をしていたのではないか」という目を疑うような事が掲載されることがある。
この時代は、まさに情報戦だったでしょうから、志士たちは、各宿屋から情報を巡っての争奪戦ということもあったと思います。
で、おりょうは、龍馬専属の情報屋。
なるほどと思いましたが、残念ながら、それを裏付けるものがみつかりませんでした。
どうして、そんな事が囁かれるのか。
それは、寺田屋事件が関係しているに他なりません。
「おりょうが、外部に違和感を感じ龍馬に報せに行く。」
それは、「情報をつかんでいた人物」と認識されやすいということです。
果たして真相はどうなのか検証開始です。
寺田屋での行動は情報収集だったのか
結論から言うと、スパイという結論は難しいということです。
宿屋は、確かに、当時色々な志士達が出入りしていて情報収集には持って来いの場所ではあります。
ドラマや映画に出てくる幕府や他の勢力のためにスパイ活動をするというのは、あまりにも飛躍しすぎた考え方だと思います。
あの時のおりょうにとっては、自分の愛する人の危機をしらせたと考えるのが自然でしょうね。
もちろん、幕末という時代背景だけに、常に危険と隣り合わせだということを認識していた、おりょうは、「自然と龍馬専属のスパイになっていた。」ということは、否めません。
おりょうは、一人の女性として本当に龍馬を愛していたんですね。
ということで、こちらでは、スパイ活動というよりは、機転の利く女性だったということです。
史料から見たおりょうの評価と創作との違い
おりょうは、創作作品で、よく神秘的に妖艶に、そして、諜報的なスパイ活動をテーマに描かれる事が多いと思います。
坂本龍馬という国民的人気人物の妻であるという宿命です。
おりょうの事を調べていると、実は、それほど、はっきりとしたものとしては残っていないんですよね、。
どちらかというと、断片的と言えばわかりやすいでしょうか。
断片的なものに空白を埋めていってる感じです。
でも、おりょうの魅力は、現存する史料を読むだけで「事実は小説よりも奇なり」ではないですけど、十分に伝わってきますよね。
スパイ活動の事実がなくても、現実的な苦労や行動力、そして性格や、この時代を取り巻く環境を感じとるこそ、その人物の厚みがわかります。
坂本龍馬の死後、おりょうはどう生きた?再婚の有無と晩年
慶応3年(1867年)11月15日、京都・近江屋で運命の時を迎えました。
龍馬の死後、おりょうは、希望と失意のどん底にいたことは、容易に想像できますよね。
それはもう、計り知れなかったことと思います。
その時、おりょうは、長州藩(下関)にいて、龍馬の帰りを待っていたそう。
京都で、新しい時代の変遷を見守り、落ち着いたら迎えに来ると約束していたそうです。
慶応3年(1867年)12月2日に、寺田屋事件で龍馬と一緒に闘った従僕の三吉慎蔵が涙ながらに報せにきたという。
初めは信じられない様子だったけど、その内に現実を受け入れて、大きく泣き崩れたといいます。
誰が想像したでしょうか。
いや、その行動、功績だけに誰もが、いつかは、「こうなるかもしれない」と思ったかもしれません。
著者も、おりょうの事を調べるうえで、その時のおりょうの気持ちを考えると胸を締め付けられる思いです。
さて、その後、おりょうは、どんな気持ちで、どんな生活を送ってきたのか、龍馬の死後の生活から晩年までを、その波乱万丈な人生を見てみましょう。
龍馬の死後の生活と支援者たちとの関係
色んな状況によりますが、この時代の一人の女性としての生き方は、注目出来る点だと思います。
そして、これは、おりょうだから、こういう風に生きてこられたではなく、こういう危険な時代背景の中で現に女性が一生懸命に生きてきた事実があるという視点で見て頂けたらと思います。
結論から言うと、おりょうは、不安定な生活を余儀なくされたようです。
もちろん、関係者からの一定の支援はあったみたいですが。
時代が時代だけに、危険だけで有名な志士を亡くして一定の保障があるわけではないでしょうから、むしろ、夫を亡くした一人の未亡人として現実の生活に直面したと思えば、わかりやすいと思います。
維新後の社会での女性の生き方です。
おりょうは、慶応4年(1868年)3月に土佐の坂本家を訪ねたそうです。
龍馬の兄の権平夫妻と姉の乙女との共同生活のスタートです。
でも、3か月しかもたなかったようです。
1868(明治元年)3月には、出ていきます。
おりょうによると「龍馬に下りるお金がほしくて、私を利用して、お金がはいったら邪魔者にした」との言い分です。
次に頼ったのは、(千屋家)菅野覚兵衛で妹の起美の夫です。
覚兵衛は、アメリカに留学してしまい、居ずらくなったようですね。
明治2年(1869年)中頃に土佐を出たとあります。
この時、おりょうは、龍馬との手紙を全て燃やすよう伝え現存するもので1通しか残っていない。
そして、いつか世話になった京都の寺田屋の、お登勢の元へ行った。
龍馬の墓所で募守をして暮らしていたが、居づらくなった。
そして、勝海舟を頼りに江戸に向かったということです。
でも、長続きはしないで、西郷隆盛のところにも行ったが西南戦争で亡くなってしまいました。
元薩摩藩士の吉井友実、元海援隊士の橋本久太夫の所への記録も残っています。
おりょうは、元海援隊士達には、すこぶる評判が悪く援助した人はいなかったという。
ある会合でも、妹婿の菅野覚兵衛に「品が悪い」とか「意見しても聞かないので面倒見れない」と拒否された。
おりょうの後の回想には、本当に親切だったのは、西郷と勝とお登勢だけだったという。
・・・どうでしょうか。
やはり時代も関係してるのでしょうが、女性は1人では、簡単に生きて行きづらいということが読んでとれますよね。
それでも、生きて行こうという力強さには、感動します。
以前に紹介した、おりょうの性格の部分で「男勝りで勝ち気」という部分が、ここで生きてますよね。
この明治という新時代に女性が1人でどう生きたかです。
なにか、一人の人間として見てみると、むしろ、生きるために次の人生を選ばざるを得なかった現実が見えてきて複雑な気持ちになります。
やはり、男勝りで気性も激しい、おりょうは、どこでも長続きしないようで、結果、たらい回しです。
おりょうは再婚したのか?さな子との混同も整理
明治7年(1874年)に勝海舟・菅野覚兵衛に神奈川宿の料亭(田中屋)を紹介してもらったようです。
田中屋の仲居として働いたが、「使いづらい女中だった」として板前たちと、うまくいかなかったようです。
おりょうは、明治8年(1875年)に再婚したようです。
相手は、横須賀の西村松兵衛という男性です。
職業は、大同商人とかテキ屋をしていて、あんまり裕福ではなかったようです。
名前は、西村ツルとなり、母の貞や妹の子、松之助を養子にしたという。
しかし、明治24年(1891年)に貞と松之助が、なくなった。
横浜での暮らしと晩年の姿
おりょうは、明治30年(1897年)には、横須賀で狭い貧乏長屋で生活していたという。
晩年は、アルコール依存症で松兵衛に、「私は龍馬の妻だ」と絡んでいた。
そのうちに、夫を亡くした妹の光枝がおりょうを頼ってきて3人で生活を始めた。
松兵衛・光枝は、2人で出ていき別居。
おりょうは、1人になり、退役軍人の工藤外太郎に保護された。
明治39年(1906年)1月15日に、おりょうは66歳で死去。
龍子や後年の証言からたどる、おりょうの最期
おりょうは後年、「龍子」といった名で記録されることもあり、墓碑や証言をたどることで最期の姿が見えてきます。
ただし、晩年に関する情報は断片的で、後の回想や地域の噂が混ざるため、すべてをそのまま事実と受け取るのは疑わしいです。
それでも、龍馬の妻として記憶され続けたこと、そして本人もその過去を完全には切り離せなかったことはわかります。
最期まで、おりょうの人生は「龍馬の妻」ということと現実生活の間で揺れていたのでしょう。
だからこそ、その晩年は悲劇としてだけでなく、激動の時代を生き延びた一人の女性の記録として読む価値があります。
写真・手紙・証言でたどる楢崎龍の実像
おりょうの実像を知るには、伝説やドラマの印象だけでなく、写真、手紙、証言といった具体的な資料に目を向けてください。
特に坂本龍馬は人気があるため、周囲の人物も後にイメージされやすく、おりょうも例外ではないです。
残された資料は、あんまり多くないようなので、一つ一つの情報の重みが大きくなりますね。
有名な写真が本当におりょうなのか、龍馬の手紙にどんな感情がにじむのか、明治以降に作られた人物像とどこが違うのかを見ると、よりリアルな姿が見えてきます。
おりょうの写真は残っている?有名な肖像の見分け方
おりょうの写真として紹介される画像はいくつかありますが、すべてが確実に本人と断定できるわけではありません。
幕末から明治初期の写真は、記録の不十分さや伝来の曖昧さから、人物の鑑定が難しいことが多いです。
特に、おりょうの写真は、調べたところ、若い頃と晩年の写真2枚ありますが、見比べてみると、年齢差が、30歳位あるようで同一人物の写真かどうかは怪しいものです。
「有名だから本物」とは限らず、出典や来歴を確認する必要があるようです。
また、後に描かれた肖像画やイメージした絵が写真のように扱われることがあり、同じ感じだと勘違いが起きてしまうことにも注意です。
おりょうの容姿については「京美人」とよく言われますが、そんな評価も後の時代にイメージが含まれているのではないかと思います。
写真を見るときは、史料の信憑性と価値と分けて考えるべきだと思います。
龍馬の手紙に見る妻への思い
坂本龍馬の手紙は、おりょうとの関係を知るのに非常に重要な史料だと思いますね。
当時、おりょう自身が、意図的に処分した手紙もありますが、それは、当時の、おりょう自身の心情によるものだから、仕方がないけど、惜しいですね。
龍馬は政治家や革命家として考えられますが、手紙には人間味のある言葉づかいや、親しい相手への気遣いが見え隠れしてます。
おりょうに対しても、単なる同居人ではなく、信頼する伴侶として接していた気持ちが伝わってくるようですね。
なんというか、龍馬の、おりょうを見る優しい目をイメージ出来るというか。
もちろん、現存する手紙だけで夫婦関係のすべてを伝えることはできないです。
それでも、危険な活動の中でおりょうが精神的に近い存在だったことは十分感じまね。
龍馬の手紙を読むと、英雄の裏にある私的な感情が見え、おりょうの存在の大きさがより具体的になります。
明治以降に語られた人物像はどこまで本当か
明治以降、おりょうは「龍馬を救った女性」「日本初の新婚旅行をした奥さん」「気性の荒い未亡人」とか色々と言われてますね。
これらは完全な偽りではないけど、後の時代の物語化の影響を強く受けてるみたいです。
龍馬人気が高まるほど、おりょうもまた理想の、奥さんや悲劇のヒロインとして描かれやすくなりました。
でも、実際には、先に紹介した通りに、困窮、再婚、地域を転々とする暮らしなど、もっと複雑で現実的な人生を送っています。
つまり、後の時代の人物像は大体の真実を含んでいても、全部本当ではありませんよね。
史料を基に見直すことで、おりょうはより人間らしく、そして魅力的な存在として見えてきます。
坂本龍馬の奥さんにまつわる誤解Q&A
坂本龍馬の奥さんについて調べると、「正式な結婚だったのか」「おりょう以外にも妻がいたのか」「横浜や横須賀との関係は本当か」など、細かな疑問が次々に出てきます。
これは龍馬が人気人物であることと、おりょう自身の人生にも史料の空白や後の時代の想像が多いからです。
ここでは、検索されやすい疑問をQ&A形式で整理し、できるだけ誤解の少ない形でポイントをまとめますね。
事実として確かな部分と、言い伝えや解釈が混ざる部分を別々に考えて下さい。
坂本龍馬は本当におりょうと正式に結婚していた?
現代の戸籍婚の感覚で見ると判断が難しいですけど、坂本龍馬とおりょうは実質的に夫婦であり、周囲からも妻として認識されていたと考えてよいでしょうね。
幕末当時は現在のような婚姻制度が整っていないから、「婚姻届があるか」ということでは考えることが出来ません。
龍馬の手紙や周囲の人々の証言からは、おりょうが特別な人物であったことが読み取れます。
なので、歴史本とかの説明では「坂本龍馬の妻」と表現されるのが普通なんです。
これは、当然のことですが、厳密な法制度の話と、歴史上の夫婦関係の認識は一緒にしないで下さいね。
おりょう以外に女性関係はあった?
坂本龍馬には、おりょう以外にも女性との関係が語られることがあるんですよね。
有名なのが千葉佐那で、龍馬との縁談や深い関係があったとされるため、しばしば「もう一人の妻」のように誤解されます。
しかし、普通では、妻として広く認識されるのはおりょうです。
龍馬ほどの人気人物になると、恋愛や婚約にまつわる話が膨らみやすく、後の時代の勝手な想像も加わります。
女性関係がまったくなかったとは言い切れませんが、「奥さん」という検索意図に対する答えとしては、おりょうを中心に考えて問題ないです。
『横浜』『横須賀』との関係はどこまで事実?
おりょうの晩年は横浜との関係がよく知られていますが、横須賀とのつながりも地域の資料や墓所の話題の中で出てきます。
ただし、横浜と横須賀は同じように見られやすく、どの時期にどこで暮らしたのかは資料ごとに確認した方がいいですよ。
検索上では「横浜」「横須賀」が並んで出てくることがあけど、すべて同じ意味ではないです。
重要なのは、おりょうが明治期に関東方面で生活し、龍馬の妻として記憶され続けたことです。
細かいことは、史料差があるので、場所の名前だけで断定しないことが大切です。
反魂香はんごんこうなど逸話は史実として信頼できる?
おりょうや龍馬にまつわる逸話には、反魂香とかスピリチュアルな話が含まれることがありますね。
こうした逸話は人物の悲劇や愛情の深さを印象づける一方で、史実としての実際が弱い場合も多いです。
一つ例を挙げると、龍馬が、暗殺された時、おりょうが、「枕もとで血まみれの龍馬が寂しそうな眼をして立っていた」と目にしましたが、全てを否定しませんが出所がはっきりしない分、怪しいものです。
明治以降に広まった話は、講談や小説、地域の言い伝えの影響を受けていることがあります。
そのため、逸話を完全否定する必要はありませんが、歴史の事実として扱う時は、慎重に。
感動的な話ほど広まりやすいからこそ、史料の有無を確認しながら読むことが、坂本龍馬とおりょうを正しくわかってきます。
【年表まとめ】坂本龍馬奥さん・おりょうの生涯を時系列で総整理
最後に、坂本龍馬の奥さん・おりょうの生涯を時系列で考えてみますね
。
おりょうは、京都の医師の家に生まれ、父の死後に生活苦を経験し、寺田屋で働く中で龍馬と出会いました。
寺田屋事件で龍馬を救ったことで名を残し、その後は夫婦として旅や移動を重ねます。
しかし龍馬の死後は厳しい現実に直面し、再婚や横浜での暮らしを経て晩年を迎えました。
こうして並べると、おりょうの人生は「英雄の妻」という一言では収まらない、波乱万丈だったとわかります。
出会い以前:楢崎家と幕末の環境
おりょうは京都の楢崎家に生まれ、父・楢崎将作のもとで育ちました。
もともとは、そんなに貧しくはない、むしろ裕福な生活環境にありましたが、父の死によって家計は困窮し、生活は大きく変化します。
幕末の京都は政治の中心であり、尊王攘夷派、公家、幕府勢力が往来する緊張の場でした。
そんな時代背景の中で、おりょうは早くから現実に向き合う力を身につけていったと考えられます。
これらの出来事が、後の寺田屋事件での行動や龍馬との出会いが偶然ではなく、時代と境遇が重なった結果だったことが見えてきました。
出会いから結婚:寺田屋・慶応年間の重要出来事
家計を支えるために寺田屋で働いたことで、おりょうと龍馬は接する機会が増えました。
慶応2年の寺田屋事件では、おりょうが異変を察知して龍馬に危険を知らせたことで、二人の関係は決定的に深まったのではないかと予想されます。
そして、龍馬の療養を兼ねた薩摩方面への旅が始まり、これが後に日本初の新婚旅行と呼ばれるようになりました。
慶応年間を通して、龍馬の手紙や周囲の人々の証言から、おりょうが妻として認識されていたことがわかります。
二人は幕末の激動をともに駆け抜けたんですね。
龍馬の死後から晩年まで:再婚説・横浜生活・最期
慶応3年、龍馬が暗殺されると、おりょうは若くして未亡人となりました。
その後は支援を受けながらも生活は安定せず、再婚したとされる人生を歩みます。
明治期には横浜などで暮らし、龍馬の妻として知られながらも、現実には苦難な日々を送ったと伝えられます。
晩年の記録には断片的な証言や墓碑情報があり、「龍子」といった名でもたどることができます。
最期まで波乱の多い人生でしたが、その歩みは幕末維新を生きた女性の現実を映す貴重な歴史でもありました。
まとめ
おりょうの波乱万丈な人生は、いかがでしたか。
なんだか悲しいですよね。
時代が時代だったとは言え、悲しすぎますよね。
当時の京都は、志士や幕府の人が、たくさん往来する危険な場所です。
ひょっとしたら、隣で平気で人を殺めていたような時代です。
これは、私の想像ですが、京都で育ったおりょうだったからこそ性格も男勝りに形作られていったんだと思います。
おりょぅは、何人も妹弟を抱える長女で、逆に言えば、生きて行くために、そうならざるを得なかったんですね。
内面的には、バイタリティあふれる女性で頼もしくもあり、勇気付けられます。
注目するのは、そんな女性が一つの恋を通して、必死に激動の時代を生き抜いていく姿です。
想像できますか。
だから、歴史ってロマンがあっていいんですよね。
最後まで、お読み頂きありがとうございました。

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